退職した従業員による競業行為が不法行為に該当しないとされた事例
(最高裁第1小法廷平成22年3月25日判決)

1 事案の概要

 X社の従業員であったYが、X社を退職後、Z社を事業主体として競業行為を行ったことにより損害を被ったとして、X社がY及びZ社に対し、不法行為または雇用契約に付随する信義則上の競業避止義務違反に基づく損害賠償を請求しました。

2 裁判経過

 第1審(名古屋地裁一宮支部平成20年8月28日判決)は、Yはそもそも競業避止義務を負っていない上、Yが、取引上逸脱した方法、態様で、X社の営業上の利益を侵害したとはいえないなどとして、X社の請求を棄却しました。
 これに対し、控訴審(名古屋高裁平成21年3月5日判決)は、①Yは、本件取引先(注:X社在職中にYが営業担当であった取引先であり、Y退職以降、Z社との取引をするようになった会社。以下同様。)を主たる取引先として事業を運営していくことを企図して本件競業行為を開始し、②YのZ社への代表取締役就任等の登記手続を遅らせるなどX社に気付かれないような隠ぺい工作等をしながら、③Yと本件取引先との従前の営業上のつながり、すなわち顧客情報を利用してX社から本件取引先を奪い、④Z社の売上げのほぼすべて(8~9割)を本件取引先から得るようになる一方で、これによりX社に大きな損害を与えた(従来X社の受注額の約3割を占めていたものが、約5分の1程度に減少した)ことなどを理由に、Yらに対して、不法行為に基づく損害賠償の支払いを命じました。

3 最高裁判決の要旨

(1)競業行為の不法行為該当性
 最高裁判決第1小法廷平成22年3月25日判決(以下「本判決」といいます。)は、まず、元従業員(Y)による競業行為が不法行為に該当するのは、『元従業員等の競業行為が、社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で元雇用者の顧客を奪取したとみられるような場合』であるとの基準を示しました。

(2)本件へのあてはめ
 次に、本判決は、本件において以下の事実が認められることから、Yらによる本件競業行為は、社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法なものということはできず、X社に対する不法行為には当たらないと判断して、X社による損害賠償の請求を棄却しました。

(ア)退職のあいさつの際などに本件取引先の一部に対して独立後の受注希望を伝える程度のことはしているものの、本件取引先の営業担当であったことに基づく人的関係等を利用することを超えて、X社の営業秘密に係る情報を用いたり、X社の信用をおとしめたりするなどの不当な方法で営業活動を行ったことは認められない。
(イ)本件取引先のうち3社との取引は退職から5か月ほど経過した後に始まったものである。
(ウ)退職直後から取引が始まったA社については、X社が営業に消極的な面もあったものであり、X社と本件取引先との自由な取引が本件競業行為によって阻害されたという事情はうかがわれない。
(エ)Yの退職直後にX社の営業が弱体化した状況を殊更利用したとも言い難い。
(オ)(Z社における)代表取締役就任等の登記手続の時期が遅くなったことをもって、隠ぺい工作ということは困難である。
(カ)退職者は競業行為を行うことについて元の勤務先に開示する義務を当然に負うものではないから、Yが本件競業行為をX社側に告げなかったからといって、本件競業行為を違法と評価すべき事由ということはできない。
(キ)Yが他に不正な手段を講じたとまで評価し得るような事情があるともうかがわれない。

4 考察

(1)現行法上、退職した従業員に対して、競業避止義務を負わせる旨の規定は存在していません。つまり、退職した従業員は、当然に競業避止義務を負うものではありません。
 労働契約終了後も元従業員に対して競業避止義務を負わせたいのであれば、就業規則や特約において、その旨を定めることが必要になります。ただし、退職後の競業避止義務は、約定があればすべて有効とされるわけではなく、従業員側の職業選択の自由の合理的な制約にとどまっていることが必要です。
 他方、上記のような約定がない場合であっても、従業員側の競業行為の態様によっては、不法行為が成立する場合があると考えられています。
 本判決は、退職後の競業避止義務に関する約定がない場合に、退職した従業員による競業行為が発覚したという問題について、最高裁がなした初めての判断です。

(2)上記裁判経過からお分かりのとおり、本件では、第1審と控訴審とで不法行為の成否についての判断が分かれていました。最高裁は、結論的に第1審を支持しましたが、このように判断が分かれたのは、上記に挙げた事実の評価の違いによるものと考えられます。
 例えば、控訴審は、Yと取引先との従前のつながりを、保護に値する顧客情報であるととらえて、Yがその顧客情報を利用して取引先を奪ったと会社側に肯定的な評価をしたのに対し(③)、最高裁は、Yと取引先との従前のつながりはあくまで人的関係に過ぎず、営業秘密等の利用と同視できる状況にはないとして、会社側に否定的な評価をしています((ア))。
 また、控訴審は、Z社の売上高のほとんどは、X社の取引先であった本件取引先によるものであること、ひいては、X社に大きな損害を与えたと評価しているのに対し(④)、最高裁は、X社が一部取引先への営業に消極であったこと、その他の取引先との取引開始が競業直後からではないことをとらえて、必ずしも悪質な事情ではないと評価しています((イ)、(ウ))。
 さらに、YのZ社代表取締役就任等の登記が遅れたことについても、控訴審は隠ぺい工作の一つであると評価しているのに対し(②)、最高裁は、隠ぺい工作とはいえないとの評価をしています((オ))。

(3)本判決は、退職後の競業行為につき、特約がない場合であっても不法行為が成立する余地を認めました。とはいえ、本判決を受けて、会社側が競業している元従業員に対して、不法行為責任を追及するのは決して容易ではないと考えます。
 元従業員が在職時の人的関係を利用して競業のための営業活動を展開していたとしても、会社の営業秘密が利用されていなかったり、会社をおとしめるような営業活動を行ったりするのでなければ、違法ではないとされたためです。
 そのため、会社としては、退職する従業員との間で特約を取り交わすことや、会社の情報管理の徹底のほか、取引先との間で日常的にコミュニケーションをとるなどして、退職者による競業行為の影響を極小化できるようにしておくことが必要であると考えます。

以上